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TRPGシナリオとかの墓場
世界はいつだってかみ合わない。

綺麗に調和して上手く収まっているように見えて、その実お互い何も分かり合わないまま会話が続いていく。ある意味ふたつの世界を知っている蓮にとっては、それが何よりも気持ちの悪いものに見えて仕方がない。
あなたのことなら私、なんだって知ってるわ。
ぼくも、きみのことを全部理解してあげたいと思う。
……実際、ただの茶番だ。いや、愛の言葉なんてしょせんは上辺だけの茶番でしかないのかもしれない。そのあたりは恋愛に疎い蓮には区別がつかなかったが、それにしてもやはり茶番にしか見えなかった。だって、今その教室のカーテンの陰で愛を囁きあっているふたりだが、女子のほうは言葉通り相手のすべてを見渡す目を持つオーヴァードで、男子のほうはそのことに一切気がついていないただの一般人なのだから。
オーヴァードだと知っているのは、養父から聞かされたからだ。クラスは蓮と違うが、なぜこの教室にいるのだろうか。いっぽうの男子は、顔も名前も知っているクラスメイトだった。一度隣の席になって、やたらと教科書を見せてほしいとせがまれたことしか記憶にない。
男女の影が、カーテン裏でさらに距離を縮めた。おそらく女子のほうは、今教室に忘れ物を取りに入ってきた蓮の存在に気がついているだろう。しかし、男子のほうは目の前の意中の異性に想いを伝えることに必死で、全く蓮のことなど気付いていない。放課後の教室にいるのは自分と相手だけだと信じ込んで、耳をふさぎたくなるようなくすぐったい言葉をひたすら羅列している。一方の女子のほうも性格が悪いのか、蓮の存在に気付いていながらも、男子の睦言を止める気もないらしい。カーテンをしっかりと纏って、二人分のシルエットを見せ付けるようにしてクスクス笑っている。

きっと女子のほうは、自分が何もかも把握できていて、あらゆる人物の心情が自分の手のひらの上で転がっていると思っているのだろう。蓮も特にカップルに声をかけるつもりもなく、淡々と忘れ物を探して鞄に詰め込む。養父である孤児院の園長によれば、オーヴァードはサイコメトリーのようなことまでは難しくとも、ある程度その呼吸や体温、瞬間的な直感から、相手の考えをざっと読むことができるという。きっと、彼女もそんなタイプのシンドロームを持っているのだろう。
だが、と蓮は思う。人の心というものは、そんなに単純なものではない。そりゃあ、美人の女の子を前にすれば鼓動も高鳴り、多少の興奮状態にはなるだろう。でも、蓮は知っていた。男子のほうは以前、他のクラスメイトたちと共に、とある話をしていたことを。

――超能力?とかいうの、まだ信じてんのかよお前ら。あんなの、実際に近くにいたらきもちわりぃに決まってんじゃん。

ゲラゲラと大声で笑いながら、彼はそう話していた。そうして最後に、こう締めくくったのだ。

――やっぱりさぁ。彼女にするなら、変な高望みはしないで普通の子にするのが一番だと思うわけよ、俺は。

その言葉が、やけにはっきりと蓮の耳に残っている。そう、普通の子。ただその一点において、今カーテン裏でほくそ笑んでいる彼女は、一生彼と分かり合うことはないのだ。
(可哀想に。)
蓮は心の中でただ一言そう呟いて、さっさと教室を後にする。彼女はUGNで要観察指定に入っていると、義父から聞いている。きっと直に、己の住む世界がここではないことを知らされて、あの男子からも手を引くことだろう。
(本当に、可哀想に。)
蓮が教室の扉を閉めるその時まで、カーテン裏の睦言は続いていた。



オーヴァードと非オーヴァードがお互いに手を取り合う世界。
それは確かに、美しい理想の世界だと思う。もちろん蓮も、そんな世界を夢見ている。少なくとも自分の暮らしている孤児院内では、小規模ながらその理想世界が実現できていた。園長である家鳴冥と、その連れ添いである空澄明日香は、自身がオーヴァードでありながら非オーヴァードに対しても平等に扱ったし、孤児院の子どもたちもそれが当たり前という世界で育ってきている。自分の普通は、誰かの普通ではない。誰かの普通は、私の普通ではない。それが世界なのだと教えられてきた。そして、それを許容しなさいとも。
しかし、中学校に入り思春期を迎えた蓮は、その理想世界を夢見ながらも、その難しさをだんだんと知るに至っていた。
オーヴァードの普通と、力を持たない非オーヴァードでは、どうしても『普通』の概念に大きな隔たりがある。
それは、強大な力を持つ故の優越感か。あまりにできることが多すぎる故の鈍感さか。
いつでも人類を征服せしめる力は、ただあるだけで脅威だった。
そして、その力を持たざる者たちにとっては、理屈と理性だけではどうにもならない、最も原始的な感情がその隔たりを埋める。

それは、純粋な恐怖。

蓮は一度も、孤児院の仲間たちの力を怖いと思ったことはなかった。だが、自分が意識を失っている間に起きたオーヴァード関係の暴動の話を聞かされるたびに、内心ただただ震え上がっていた。
・・・・・・怖い、恐い、コワイ!!!!
自分にはない力に対する、本能的な恐怖。それに抗えずに震える自分に気付いて、蓮は愕然とした。それは、言い換えればこうして孤児院を全力で守ってくれている、自分たちの親代わりである人たちにも向けられかねない感情だ。

蓮は、その恐怖する自分を恥じ、同時に、世間の非オーヴァードたちの心情を理解したのだ。
どんなに綺麗事を述べたところで、人は本能的な恐怖に抗うことはできない。この恐怖を抱えたままで、オーヴァードと非オーヴァードが手を取り合うことなどできるのだろうか。答えはまだ、蓮の中では見つかっていない。



とぼとぼと階段を下りて、校舎の昇降口で上履きから革靴へと履き替える。
そして、ふと先ほどの男女を思い出すのだ。
――あの二人は、本当に理解し合うことができるのだろうか。もし、彼女のほうから素性を明かして、彼のほうがそれを心から受け入れることができたのなら、未来は明るいのかもしれない。
だが、とかぶりを振る。校舎を出て、校庭を横切りながら校舎の窓を見上げる。先ほど蓮が訪れた教室の窓際に、もう先ほどの男女の姿はなかった。
(……理解し合うことはできなくても、恋愛だけならできるのかな。)
恋愛、というものをしたことがない蓮には、その気持ちは分からない。好きになった人には、やっぱり全部分かってほしいと思ってしまうし、相手のことも分かりたいと思ってしまうだろう。
(私はそのときに、ちゃんと相手のことを受け入れることができるのかなぁ。)
校門をくぐり、夕焼け空の下通学路を歩いていく。きっと今日は、ママ先生が美味しいハンバーグでも作ってくれていることだろう。

ちくり、とこめかみが痛んだ気がする。
まるでこれ以上深く考えるのはやめろと、誰かが警告でもするように。
蓮も難しいことを考えたくなくて、思考を今夜の夕食と、年下の仲間たちへと馳せる。
今はまだ、考えたくない。だって、孤児院では理想の世界が完成しているのだから、何も心配することなんてないのだ。
(そうだ、私たちのことを園長先生もママ先生も守ってくれるんだ。何も怖いことなんてないんだ。そう……)

――コワイものぜーんぶ、オレサマが壊してやるから安心しろよ――

一瞬、暴力的な声が聞こえたような気がして、ぶんぶんと首を横に振る。ああ、慣れない委員会活動ですっかり疲れてしまっているらしい。夕飯前に、少しだけ仮眠を取ろうかな。
そうこうしているうちに蓮の足は、彼女の家である孤児院の前まできちんと歩いていて、痛むこめかみを押さえながら鍵を取り出してドアを開ける。
「ただいま。」
「おかえり!……蓮ちゃん、どしたの?顔が、なんか白いよ?」
ドアを開けるなり、待ち構えていたかのように出迎えてくれた年下の家族が、心配そうに蓮の顔を覗き込んできた。それに苦笑して、「ちょっと疲れちゃっただけだよ。今日は当番じゃないし、ごはんの時間までちょっとだけ寝るね。」と答えて、ちびちゃんの頭を撫でる。
通学カバンを肩から下ろして、重い足取りで階段を登る。後ろから心配そうな声が追いかけてきたが、先に帰っていた悠が、ちびちゃんに声をかけるのが聞こえた。これで安心だろう。

自室に戻ると、カバンは机の横に放り投げて、制服も脱がずに寝台に身を沈めた。
やわらかい布団に埋もれながら、ぼうっとしてくる頭に疑問をひとつ投げかける。
「……どうして、私はオーヴァードじゃないんだろう。」
小さいころからずっと繰り返してきた言葉。
自身もオーヴァードだったら、こんな矮小な人間の感情に怯えずに済んだのだろうか。非オーヴァードの人たちの感情になんて気付くことなく、ばかみたいに理想世界を口にできたのだろうか。
「そんなこと言っても、どうしようもないよね。」
また思考が泥沼に陥る前に、ついに蓮は思考を放棄して目を閉じた。
今はただ、この小さな理想世界で眠ろう。
このどうしようもなく噛み合わない二層構造の世界の中で、ここだけが蓮にとって安心できる場所なのだ。オーヴァードも非オーヴァードもいて、ひとりひとり異なる『普通』が存在する世界。愛おしき極楽浄土。

願わくば、この浄土の華が、いつか世界中にも広がりますように。

おやすみなさい。
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「ずっと貴方を捜していました。」

ミルクティーのような色の髪がふわりと揺れて、あの人が振り返る。その表情は驚きに満ちていて、普段ならば半分程度しか開かれていない瞼が、今は限界まで見開かれていた。
じくじくと蝉が煩く鳴いている。遠くからは救急車のサイレンが聞こえる。夏の日差しが容赦なくアスファルトを焦がして、狭い路地で出会ってしまった私とあの人を焼き殺そうとする。この夏の暑さの中でもあの人は長袖をきっちりと着ていて、いつかの喫茶店で見かけた細い腕は見えない。それが少しだけ残念だった。
驚いた表情から、徐々に困ったような表情へと変わっていく。当たり前だ、突然知らない男からこんな風に声をかけられたら、誰だってそんな顔になるだろう。私は慌てて、謝罪を述べてからあの人へと一歩近寄る。
「突然お声がけしてしまい、申し訳ありません。昔、貴方を近くの喫茶店で見かけて、それ以来ずっと忘れられなかったのです。まさかこんなところで再会できると思わず、つい浮かれて声をかけてしまいました。」
当然、あの人は私など覚えてもいない様子だった。あの頃、あの人は喫茶店で働いていて、私はその客にしか過ぎなくて。店長の女性目当てに通い始めたはずの喫茶店で、衝撃的な出会いをしてから十年。無表情にたどたどしい言葉遣いで、カフェオレとミルクティーを間違えて運んできたこの店員を、ずっと私は忘れられずにいた。
蝉の声に負けないように声を張って、あの人の返事を待つ。あの人はといえば、もう数年経っているにも関わらず、あのころから何ひとつ変わらない容姿のままで、相変わらず年齢も人種も、性別すらもあやふやだ。その危うさがまた目を惹いて、私の心はすっかり虜になってしまった。
何秒、何分、何時間経ったのかも分からなくなるほど、私はあの人の唇が動くのを待った。やがて、あの人が口を開く。さっきの救急車のサイレンがまだ聞こえるということは、多分そんなに時間は経っていない。だというのに、私にとっては、からからの砂漠に数年ぶりに降る雨のような得難さを感じて、そのもたらされる恵みにただ耳を澄ませた。
「そうですか。」
返された返事は、ただそれだけ。声色には困惑が隠せずに混ざりこみ、こちらが何者かを疑っているように感じ取れた。そのことに、少しだけがっかりする。心のどこかで、ほんの少しだけ、あの人が私のことを覚えていてくれているのでは、という期待があったのだろう。
「はい。よろしければ、少しだけ私と話してくださいませんか。ちょうど、近くに喫茶店もあることですし。」
私は、勤めてこの落胆が混ざらぬように殊更に明るい声で、あの人に微笑みかけた。私の勝手な諦観を、このミルクティーの君に押し付けるのはあまりに人でなしだ。そのくらいの常識は持ち合わせている。そっと、この路地から少し先に見える大通り沿いの、少し古い造りの喫茶店を指差して見せると、あの人もそちらに視線をやって、薄く微笑んだ。
「構いませんよ。僕も人を待っていて、ちょうど暇です。」
「それはよかった。」
やっと、あの人の表情が明るくなったことに舞い上がり、私はあの人の横へと並び立つ。私よりも頭ひとつ小さいあの人は、急に私が距離を詰めてしまったことにも驚かず、私を見上げて笑う。私が日差しを遮るように立ったものだから、ちょうど私自身の影が被さってしまい、あの人の顔を薄暗い影が覆っている。その影の中でも、あの人はあの頃からは想像もできないほど、朗らかに笑っていた。

真夏の日差しに茹った頭で、どうにかこうにかあの人の手を引いて喫茶店の前までやってくる。思ったとおりこの店は、私が最初にあの人と出会った喫茶店と雰囲気がよく似ていて、まるで十年前あの人と初めて出会った日を彷彿とさせた。アンティーク調の扉を押して、二人分の席をと店員に頼むと、窓際のいっとういい席へと案内された。あの人を先に座らせて、私もその向かい側の席へと腰を下ろす。相変らず窓の外は殺人的な日差しが降り注いでいて、大通りを走る車に反射してギラギラと眩しい。私も被っていた帽子を脱いで、左手で自分を扇ぎながら、水の入ったグラスを置きに来た店員を呼び止めた。
「アイスティーを。」
それから、ちらりと目の前に座るあの人を見る。そういえば、この人は何を飲むのだろうか。店員として接する姿しか見たことのない私には、この膝に両手を置いたまま姿勢よく座る人が何かを口にする姿が想像できなかった。
しかし予想に反して、あの人は店員と目が合うととても自然な流れで注文を口にした。
「アイスコーヒーをお願いします。」
かしこまりました、ミルクと砂糖はお付けいたしますか。いいえ、いりません。失礼いたしました。そんな店員とのやり取りを呆然と眺めて、私はついポケットをまさぐる。店員は、私にミルクかレモンかを訊くことも忘れて、そのままカウンターへと去ってしまった。失礼な店員だ、やはりあの人とは違う。
左手でポケットを探り続ける私に気付いたのか、あの人がくすりと笑った。
「ここ、禁煙席ですよ。」
「あ、ああ。失礼。」
言われて、ようやく自分が煙草を探していたことに気付く。いけない、緊張しすぎだ。それにしても、今日のあの人はよく笑う。最初に呼び止めた時には、初めて会ったころと何も変わらないと思ったのに、こうして喫茶店まで連れ込んだ今では全く印象が変わっていた。
私は思い切って、声をかけた。
「あの、よく笑うようになられたのですね。」
「……そう見えますか。」
「ええ、はい。」
「だとしたら、僕は成長できているということになるのでしょうね。」
あの人はそう言うと、少しだけ寂しそうに窓のほうへと視線を移した。何も変わらない車ばかり走る大通りに、何を見ているのだろうか。物憂げに外を見つめるあの人は、やはりあの頃と変わらず儚げで危なっかしい。しかし、その目には確かに、強い芯のようなものが見えた気がした。
私は唐突に好奇心に駆られて、この人の話を聞いてみたいという衝動を抑えられずに身を乗り出す。十年前、この人は突然あの喫茶店に現れ、そして数日後突然辞めてしまった。店長の女性や、時々店員として働いている青年たちに尋ねても、一身上の都合で辞めてしまった、今は自分たちもどこにいるか分からない、と口々に答えるだけ。同じようにこの人目当てに通っていた常連仲間も、次第に足が遠のき店に現れなくなっていったし、私も仕事の都合であの町を離れることになって以来、あの思い出の喫茶店には足を運んでいない。
あの時、この人に何があったのか。あれからずっと何をしていたのか。訊きたいことは洪水のように頭の中で渦巻いているのに、いざ声に出そうとすると喉のあたりがつまったようになる。
そうして苦しみながらも、なんとか声に出せた質問は、実にくだらないことだった。
「貴方はてっきり、アイスミルクティーを注文されるのかと思っていました。」
きょとんとして、あの人が私を見遣る。ちょうどタイミングよく店員が、私の分のアイスティーと、この人の分のアイスコーヒーを運んできて、お互いの前へと置いていった。あの人は、私とアイスコーヒーとを交互に見て、それでも不思議そうに首をかしげた。
「どうしてですか。」
「初めて貴方にお会いしたとき、私はカフェオレを注文したのに、貴方はミルクティーを持ってきたからです。てっきり、ミルクティーが好きなのだと。」
「僕はそんなことを貴方にしたのですか。」
「ええ、はい。もう十年も前のことです。」
そこまで言って、ああ、とあの人が頷いた。ようやく、私との繋がりに思い当たったらしい。
「月兎のお客さんだったのですね。あそこの皆さんは、元気でやっていますか。」
「いえ、私ももうずっと足を運んでいません。」
「そうですか。いい店でしたね、あそこは。一番大変な時期だったけれど、一番楽しかったかもしれない。」
「大変だったのですか。」
「ヒトは誰だって、生きていくのに大変な思いをするでしょう。」
「そんなものですか。」
「そんなものです。」
そう言って、あの人がアイスコーヒーに添えられたストローを取り出して、グラスに挿した。はぐらかされた、そう感じたけれども、そもそも道端で突然声をかけてきた男に対して話すことなんて、そんなものだろうとも思い直す。
「でも、」
あの人がコーヒーを飲みながら、言葉を続けた。
「あの頃があったからこそ、僕は今こうして幸せなのでしょうね。」
そう言って、あの人は再び窓辺に視線を送った。つられて私もそちらを見れば、炎天下の夏空の下を、元気に歩いていく数人の子どもたちが見えた。一緒に連れ添って歩いている女性も、麦藁帽子を被って幸せそうに微笑んでいる。
それを眩しそうに見つめて、あの人は言葉を継ぐ。
「すみません。待っていた人の用事が済んだようなので、これで失礼します。」
呆然としている私には気も止めず、あの人はそそくさとポケットから小銭を数枚出した。ぴったり、アイスコーヒー代だった。
「今日はありがとうございました。」
「い、いえ。それはこちらの台詞です。突然呼び止めてしまい申し訳ありませんでした。」
ふふっ、とあの人が笑う。やはり、この人は苦いアイスコーヒーというよりも、甘ったるいミルクティーのほうが似合うのではないだろうか。ふと、そんなことを思う。
やはり、こうして短い時間でも話すことができてよかった。あの頃の危うさは随分と薄れ、地に足を着けたような安心感と、幸福感を滲み出すあの人の笑みによって、私の中でずっと渦巻いていたものが嘘のように静けさを取り戻していた。
席を立とうとしていたあの人が、私の顔を見てぴたりと止まった。
「……ふふ、ようやく貴方も笑いましたね。」
「えっ。」
言われて、あわてて私も自分の顔を触る。笑っていただろうか、いやむしろ、ここまでの時間憧れのあの人を目の前にして、私は一度たりとも笑っていなかったのだろうか。
「感情を表に出すことは、とてもよいことですよ。」
くすくすと笑うあの人に、私もやっと緊張が解れたらしい。
きっと金輪際もう出会うことはないだろう。終ぞ名前も住まいも訊くことができなかったが、私は妙に満ち足りた気持ちで、このミルクティーの君にと微笑み返した。

「貴方があんまり楽しそうに笑うから、ついつられてしまいました。」

これは、次世代の物語が始まる、少し前のお話。

・・・

「ねぇ、蓮。コーヒーを淹れてあげようか。」
孤児院ラ・ベッラ・カーサの一室。孤児のひとりである蓮が使っている個室に、誰か尋ねてきたなと思ったら、ドアの前には年齢不詳の青年が、にこにこと笑いながら立っていた。
別に、不審者のお兄さんとかそういうわけではない。この人はれっきとした蓮の親代わりで、孤児院の園長とかいうえらい立場の人で、それでいて何年経っても見た目が変わらない不思議な人である。
ただ、お父さんと呼ぶにははばかられる、そういう存在だということはわかっていただきたい。

突然、自室で勉強に励む蓮に声をかけてきた園長は、こちらの返事も待たずに「じゃあ、少し待っていてね。」とだけ言い、食堂へと行ってしまった。連の記憶に間違いがなければ、あの人は料理をしたことがない。というか、何かを食べている姿というものを、一切見たことがない。飲み物を口に運んでいる姿こそ見たことがあるが、そんな人をコーヒーを淹れるという行為と結びつけること自体が難しかった。
「ちょっ……園長先生が淹れるんですか!?ま、待ってください俺が淹れますって!」
慌てて、園長の姿を追いかける。とっくに身長を追い越してしまい(そもそも園長の身長は、そこらへんの女の子と同程度しかないのだ)、外では兄弟か友達同士かと勘違いされてしまうような見た目の園長は、なんというかいろいろなことが危なっかしい。なんだなんだと振り返る孤児院の仲間たちの視線を無視して食堂へと入れば、併設されているキッチンに人の気配があった。
すぐに食堂とキッチンの間にかけられているのれんを手で避けて、中を覗く。すると、意外にもそこには、慣れた手つきで豆を挽き、ドリップ式の道具をセッティングしている園長の姿があった。驚いてその様子を見ていると、園長も蓮に気付いて困ったように笑った。
「待ちきれなかったのかい?」
「いや……その。先生がコーヒー淹れる姿が、想像できなくて……」
狼狽している蓮の方を見ながらも、園長の手は止まらない。どこから出してきたのかわからないコーヒーミルから豆を取り出すと、すぐにフィルターがセットされたドリッパーに摺り切りで計り入れ、すでに沸かしてあったのだろう電気ポットに手をかけている。
「こう見えてもね。昔、喫茶店でアルバイトをしたことがあるんだよ。」
お湯を注ぎながら、ぽつりと園長がつぶやく。手慣れた手つきでコーヒーを淹れる園長の横に、蓮もまた並び立った。
「本当に短い期間だったけどね、それでも、色々教えてもらったんだよ。コーヒーだけじゃなくて、紅茶の淹れ方とかもね。」
「全然、想像できないです。だって先生、食べ物の味がいまだによく分からないって言うじゃないですか。」
「これでも、食べられるほうになったんだよ。昔はひとくち食べるのが限界だった。」
「先生、そんな少食だから小さいんじゃないんですか?」
「そうかもしれないね。でも、蓮たちの作ってくれるごはんは美味しいから、昔よりも食べられるようになった。」
嘘だ、とすぐに分かる。誰が見ても失敗作だと分かる食事に対しても、この園長は顔色ひとつ変えずに「美味しいね」と宣う男だ。ママ先生も決して俺たちの料理を不味いとは言わない人だが、園長は本気で分かっていないのだと思う。
「……先生は、優しいですよね。」
「明日香や蓮たちには負けるよ。……はい、お待ちどおさま。」
そう言って、園長がほほ笑んでカップを差し出す。そこには、いい香りのコーヒーがきちんと注がれていて、確かに喫茶店で出てくる上質のコーヒーと変わりないように見えた。それをそっと受け取って、行儀は悪いが立ったままでひとくち、口につける。
「うわ、マジで美味しい。」
思わず本心が漏れる。今までコンビニかファーストフード店のコーヒーばかり飲んできたので、こんなにコーヒーが美味しいものだとは知らなかった。はっとして横の男を見下ろせば、心なしか自信に溢れた表情で、蓮を見上げていた。
「どうだい、少しは僕を見直してくれたかな?」
「はぁ、俺はいつでも先生とママ先生を尊敬しているんですけど。」
「うん、よかった。じゃあ、そろそろ僕のことをお父さんって呼んでくれるかな?」
「それとこれとは話が別です。」
「う~ん。」
蓮が再びコーヒーを口に運ぶと、園長は困ったように微笑んで蓮の服のすそを軽く引っ張った。

・・・

『おう、明日香の姐さん。』
目の前を見慣れた金髪が通ったので、なんとなしに声をかける。呼びかけられた女性のほうも、すぐにこちらに気が付き花のような笑顔を浮かべた。
「ロト、どうしたの。あなたが起きてるってことは、また蓮に何かあった?」
『なんでオレサマが起きてると、蓮に何かあったこと前提になってるんだっつーの。』
「だってあなた、普段は蓮に色々経験させてあげるんだ~って言って、大体寝てるじゃん。」
『寝てねぇよ!』
「で、どうしたの?」
明日香は手に持っていた空の洗濯籠を置いて、リビングへと蓮――否、ロトを促す。普段は糸目で目が開いてるのかどうか分かりにくい蓮が、今はぱっちりと目を開いて緋色の瞳を覗かせている。それだけでも、今の人格が蓮ではなく、ロトのほうだということがすぐに分かる。促されたロトも、言葉こそ乱暴だが明日香に素直に従って、リビングに置かれたソファへと向かう。
そうして、二人で隣り合ってソファに腰掛けると、ロトのほうからぽつぽつと語りだした。
『……や、蓮がな。』
「うん。」
ほら、やっぱり蓮のことじゃないか――と、明日香はくすっと笑ったが、ロトはそれに気付かずに話を続けた。
『冥の旦那のことを、オヤジって呼びづれぇって悩んでいてな。』
「あらあら。」
『いやオレサマとしちゃ、あんなのでも蓮の親代わりだしよ?別にオヤジって呼んでいいと思うんだけどよぉ。』
「……『あんなの』って、どういうこと?」
『ああぁぁあ語弊だ語弊!オレサマもいっぱい冥の旦那に助けられてるって!そこは分かってるって!!』
「そう?」
『そーだよ!!……ケッ、とにかくオレサマも蓮も十分、旦那には息子として助けられてると思ってる。なのによォ、蓮がいつまでもこう、ウジウジ悩んでて、もどかしいっつうか……』
「ふぅん……」
ロトの話を聞きながら明日香が視線を隣にやれば、自分や冥の身長をとっくに追い越してしまった義理の息子が、眉間にシワを寄せて足踏みをしている。この息子に寄生しているレネゲイドビーイングは、明日香のパートナーである冥と、変なところが似ていると思う。もちろん、性格は正反対だ。むしろ性格なら、蓮のほうが冥に似ているかもしれない。だが、ロトのほうはそこではなく。
「ロト、あなた自分のことは棚上げするんだね。」
明日香がそう言うと、ロトはブツブツと愚痴っていた口を止めて、ぽかんと明日香のほうへと振り返る。それをおかしく感じながら、明日香は言葉を続ける。
「あなたも私たちの息子なんだから、私たちのことをお父さんとか、お母さんとかって呼んでいいんだよ?」
そう言って、にっこりとほほ笑んで見せる。
ロトはしばらく明日香の顔を眺めて固まった後、すぐに顔を赤らめてぷいっとそっぽを向いてしまった。冥もそうだが、あれやこれやと他人を心配するくせに、どうも自分のことは勘定に入れない節がある。このレネゲイドビーイングだって、蓮と同じく自分たちの息子だと思っているのに。
「どうなの?」
『……オレサマは、ただ蓮にくっついてるだけの付属物なんだから、いいんだよ。』
「よくないよ。ここでは、オーヴァードも、オーヴァードじゃない子も、レネゲイドビーイングも、みんな家族なんだから。」
『理屈はわかってっけどよ、そうそう単純なもんじゃねぇんだよ、姐さん。』
「そう、じゃあきっと、蓮も同じように思っているのかもね。」
『……ア?』
初めて気が付いたかのように、ロトが間抜けな声を上げる。この子は、自分でも明日香と冥を親と呼べない気持ちの壁に気付いていながらも、自分と蓮を切り離して考えていたのだろう。
す、と右手を伸ばして、ずっと高い位置になってしまった可愛い義理の息子の頭を撫でる。一瞬びくりと肩が跳ねたが、ロトが抵抗する様子はない。クセの強いネコッ毛の髪を、そっと撫でる。
「私ね、あなたと蓮が仲良くおしゃべりしたら、きっと話が合うと思うの。ねぇ、まだ蓮に自分のことを話さないの?」
『まだ早い。』
「もう。蓮もあなたも、もう15歳でしょう?私がそのくらいの年齢のころには、もう冥と一緒に孤児院の話をしていたよ?」
『姐さんも旦那も、色々苦労してきたってのは知ってっけどよ。オレサマは……蓮には普通の人生を歩んでほしいんだよ。』
「過保護。」
『ウルセェ。姐さんや旦那よかマシだぜ。』
「そんなことないもん。」
頭を撫でていた手が、ゆるく払われる。しかし、ロトの表情は柔らかかった。それに安心して、明日香も手をひっこめる。
「悩みは晴れた?」
『解決しちゃいねぇが、まぁ納得はした。じゃ、オレサマは引っ込むぜ。』
「はいはい、おやすみ。」
そう言って、ロトが目を閉じる。少し体から力が抜けて、一瞬ソファの背もたれに体を沈めてから、再び起き上がりキョロキョロと周囲を見回した。
「……あれ?俺……食堂でコーヒー飲んでたのに。あ、ママ先生!もしかして俺、また寝ちゃってた?」
うっすらと開いている糸目の青年が、慌てたように明日香に頭を下げる。すっかりロトの意識は引っ込んでしまい、蓮が起きたようだった。明日香はため息をひとつついて、それから蓮を心配させないように笑う。
「ううん、急なワーディング反応があったから気絶しちゃったんだろうね。私がここまで運んだんだよ。」
「うっわ、マジ!?うわ~、ごめんなさいママ先生。はぁ、俺もオーヴァードならこんなことにならないのに……」
明日香とロトの優しい嘘を信じて、蓮が申し訳なさそうにうなだれる。少し胸が痛むが、こればかりは冥と、明日香と、ロトとの間で交わした約束なのだ。破るわけにはいかない。
蓮は、ロトの存在を知らない。自身をオーヴァードではない、ただの人間だと信じていながら、こうして明日香たちオーヴァードと共に生活をしている。
もちろん同じ孤児の中には、正真正銘の非オーヴァードもいる。だからそのことで蓮が孤独感を味わうことはないにしても、実際に蓮を守り続けているロトはどうだろうか、と明日香は憂う。レネゲイドビーイングだって、人間と同じだ。彼こそ、蓮に一番気付いてほしいと思っているだろうに。
蓮はひとしきり明日香に謝ると、明日香のそばに置かれた洗濯籠の存在に気付き、すぐに立ち上がりそれを持ち上げた。
「あ、それ。」
「洗濯の途中だったんですよね?あとは俺がやるから、ママ先生は園長先生のところに行ってあげてください。」
「いいの?それに、冥に何かあったの?」
「いや、先生が俺にコーヒー淹れてくれたんですけど……俺、たぶんお礼も何も言わずに寝ちゃったから、落ち込んでないかと思って。」
「……それはきっと気にしていないから、大丈夫。でも、私からじゃなくて蓮からも、ちゃんと言ったほうがいいと思うよ?」
「うっ、後で行きます……」
明日香の助言に気まずそうに笑って、洗濯籠を持ち上げたまま蓮は洗濯室のほうへと歩いていく。彼のことだ、他の孤児たちにも声をかけて、みんなで仲良く洗濯物を干してくれることだろう。明日香もその後ろ姿を見送って、ソファに腰かけたまま背伸びをひとつする。

・・・

「うーん、子育てって難しいね。」
明日香以外には誰もいないリビングで、ぽつりとつぶやく。
誰もいない部屋だが、すぐに返事があった。
(そうだね明日香。特に、蓮とロトは気難しい。)
空気が振動して、どこからか声が届く。まだらの紐で繋がっている明日香には分かる。それが、キッチンでひじをついている、この孤児院の園長の声だということを。
「ねぇ冥、蓮に何を言ったの?あと、ロトにも。」
(ちょっと、お父さんって呼んでよって催促してみただけだよ。そうしたらロトが出てきて、もうちょっと会話のテンポに気を遣えよって怒られちゃった。)
「いつもの冥だねぇ。」
くすくすと笑う。ここの園長になってからの冥は、いつもこんな感じなのだ。子どもたちを構いたがるくせに、会話運びが下手で、思春期の子どもたちにはいつもダメ出しをされている。そうして、大体いつも最後には明日香がフォローに回るのだ。
(ごめん。僕は怒るのは下手なのに、怒らせるのだけはいつまでたっても大得意だ。)
「別に怒ってないよ、ロトも私も。」
(そう?それなら、良かった。)
あからさまにほっとした声が響く。明日香も冥も、本当の親というものがどういう存在であるかは知らないけれど、自分たちにはこの距離感がちょうどいいと思っている。冥に関して言えば、父親というものにはいろいろと思うところがあるようだけれど、せめて自分は子どもたちに妙なものは背負わせないようにと努めているようだった。
「……ねえ、話聞いてたんでしょ?ロトのこと、いつか私たちから話すべきかなぁ?」
ふと、冥に向けて言葉を吐く。今こうして明日香の言葉に応えているということは、おそらくもっと前から、地獄耳によって明日香とロトの会話を聞いていたに違いない。明日香の予想は正しく、すぐに空気が振動して返事がくる。
(うーん。あの子たちも、まだ悩んでいるようだね。)
「頑固だよね、誰に似たのかな?」
(誰だろねぇ。でも、このことに関しては、僕たちから言う必要はないよ。)
「えっ、どうして?」
予想外の返事に、ソファから飛び起きる。てっきり冥は、自分の考えに賛同してくれると思っていたからだ。
(ロトも蓮もちゃんと考えている。保護者が手を出しすぎるのも考え物だよ。……って、恭司さんが。)
「また恭司の言ったとおりなの?もう、冥もそろそろ恭司離れしてよ。」
(ふふ、ごめんね。でも実際、僕もそのとおりだと思うから。)
「しょうがないなぁ、許してあげる。」
再び明日香が笑う。つられて、距離を隔てた彼方でも笑った気配がした。結局、二人とも親ばかなのだ。子どもたちに辛い思いをしてほしくもないし、子どもたちにとって一番良い未来を選択してほしいと思っている。
「ママ先生、こんなところにいた!」
穏やかなリビングに、また新たな声が響く。まだ幼い子どもたちに見つかってしまったらしい。はいはい、と答えて明日香も立ち上がった。
「ねぇ、なっちゃんがまたカーテン燃やしちゃったの、どうしよう!」
「あらあら大変。じゃあ、園長先生を呼んできてくれる?ごはん食べるところにいるから。」
「はぁい!」
明日香の指示で、非オーヴァードの幼子が走っていく。その様子を見守って、明日香もまた別の部屋へと歩いていく。
ラ・ベッラ・カーサ。よき我が家。冥の理想の居場所を、こうして二人で作ることの幸せを噛み締めながら。

・・・

ひと騒動を終えて、園長室へと戻ってくる。園長室といっても、表向きの孤児院経営に必要な書類や事務用品はあるものの、ほとんどが冥の私物で溢れており、もはや園長の私室と化している。私物のほとんどが子どもたちの写真と、子どもからもらった玩具のようなプレゼントばかり。
見た目は二十代のこの園長は、近辺の児童相談所やスクールカウンセラーの間でも話題の存在だ。よその施設ならば拒むような、曰く付きの子どもを快く引き取る、と。その多くはオーヴァードによる事件の関係者で、しかしオーヴァードにも覚醒できずUGNでは引き取れなかった子どもたちばかりだ。
引き取った子どものうち半数は数年以内にオーヴァードに覚醒し、残りの半数は覚醒しないまま大人になる。そんな不確定要素の子どもたちを集めて、家を作った。
別に、罪滅ぼしだとかそういうつもりは、冥にも明日香にもない。ただ、ひとりぼっちの子どもたちを見るのは辛くて悲しい。帰る家を作ってあげたい。それだけの動機だ。
決して大きな孤児院ではないが、とある人物からの融資も受けることができて、ほそぼそと運営できている。それで、十分だった。

小火騒ぎを起こしたという子どものレネゲイドウィルスをコントロールし、泣きじゃくる子どもを何とか明日香と共に宥めて、ひと休み。無造作に室内に置かれているスツールのひとつに腰かけてぼーっとしていると、何やら足音が近付いてくるのが聞こえた。
小さな子どものものではない。しかし、明日香の足音ではない。……と、なればひとりだけだろう。
コンコン、と控えめなノックの音が響く。どうぞ、と声をかければ、予想通りの姿がドアから顔を覗かせた。
「やぁ、さっきぶりだね蓮。」
「……さっきは、その、また急に倒れちゃったみたいでごめんなさい。」
蓮が、申し訳なさそうな顔で部屋に入ってくる。この子は、現在ここにいる子どもたちの中では1番の年上で、誰よりも素直な子どもだ。
昨年まではさらに上の子どもたちが数人いたのだが、無事に就職してこの園を出ていってしまった。まだ中学生だというのに、蓮は上の子たちに負けないほど立派に、下の子たちの面倒を見てくれている。
糸目をさらに細くさせて、おずおずと冥の前まで歩いてきたので、冥もそのすぐ横にスツールを移動させて座るように促す。
「まぁまぁ、座りなよ。僕も何も言わないでいてごめんね。」
冥の言葉に、ほっとした表情を浮かべて蓮も座る。この園長は何も触れることなく物を移動させたり、勝手に遠くからこちらの会話を聞いていたりと、何かと色々なことができるため、今さらスツールが勝手に移動したくらいでは動じない。
むしろ、ここではそれが普通だ。オーヴァードがオーヴァードであることを隠さずに済む家。自身を非オーヴァードだと思い込む蓮もまた、オーヴァードに寛容だ。
「コーヒー、また淹れてください。何なら紅茶でも。」
「気に入ってくれたなら、よかった。受験勉強の息抜きになったら良かったんだけど。」
「うっ、急に現実に戻しますね先生……」
眉間にしわをよせて、蓮が頭を抱える。蓮は現在中学三年生、つまり受験生だ。進路についての強い希望はなく、ただ孤児院に負担をかけない高校を選びたいというだけで勉強をしている。……しかし、蓮もロトも元々感覚型であるため、そんなに頭がいいわけでもない。選択問題なら当たるのに……とぼやく蓮をじっと見つめてから、冥は決心して口を開いた。
「ねぇ蓮。きみのためにも、これからきみはうちの子以外のオーヴァードと接点を持つべきだ。」
「へ?」
きょとんとする蓮に微笑みかけて、冥は続けた。
「きみは、とてもオーヴァードの子どもたちに対して理解がある。しかし、世間ではまだまだオーヴァードの存在は隠されている。」
「そう、ですね。」
「だから、きみがこれからの人生をどのように生きていくべきか考えるためにも、他のオーヴァードの子と話をしなさい。」
「他のオーヴァードの子……」
うーん、と蓮が首を捻る。蓮が現在通っている中学校には、UGNの息がかかっていないこともあり、オーヴァードの子はほとんどいない。そのため、蓮の中ではオーヴァードはこの家にいる人々が全てなのだ。
こんな環境だからこそ、おそらくロトも自分の存在を明かすことに戸惑いがあるのだろう、と冥は考えたのだ。まぁ――それ以外にも思惑はあるのだが。
にこ、と冥は微笑んだ。
「難しく考えなくてもいいよ。きみが今目指してる高校の中に、F市の高校があったね?」
「はい。」
「実はね、あそこは昔からオーヴァードの子が多く通っている名門なんだよ。UGNの支部が近くにあるというのもあって、もし何かがあっても安心だ。」
「ゆーじー、えぬ……」
「ああ、その話はまた追々。もっと大切なことがあってね。」
いつになく饒舌な冥に圧倒されながらも、蓮は素直に頷く。
「実は、来年の春からその学校に、明日香の甥っ子が入学するそうなんだ。」
「!ママ先生の!?」
「うん。あとは、僕の古い友人の子どもも通うらしい。それで、ぜひ蓮にはその子たちと仲良くなってもらいたいなぁって。」
どうかな?と蓮に尋ねると、予想よりも明るい表情で蓮が頷いた。興味は持ってもらえたらしい。糸のような目を一生懸命開いて、冥の顔を見つめている。
「F市の高校なら、偏差値的にも入れそうだし、俺も会ってみたい!」
「そう、よかった。まぁ、最終的に決めるのは蓮だから、もう少しゆっくり考えてみなよ。」
「はい!ありがとうございます先生!」
「うんうん」
頬を紅潮させる蓮を微笑ましく見つめながら、ふと冥はもうひとりのほうの許可を取っていなかったことを思い出す。
どうしたものかと考えてから、すぐに悪戯を思い付いた子どものように笑い、蓮へと声をかけた。
「……きみはどう思うんだい、ロt」
『アアァア!!なんッであんたはそうやって、急にオレサマに話を振るンだよ!!』
……驚いた。何の気なしにロトの名を呼ぶと、食い気味に叫びながら瞬間人格交代をして、ロトが出てきた。面白い。
『アッ、今あんたおもしれーとか不穏なこと考えてンだろ。』
「うわぁ、バレた。」
『うわぁじゃねーヨ。』
さっきまでの糸目が嘘のように目をぱっちりと開いて、やれやれとロトが足を組み直す。年齢的には蓮と同い年とはいえ、レネゲイドビーイングの精神年齢はまちまちだ。だがこのロトに関しては、肉体の持ち主である蓮と大して差がないように思える。
冥も足を組んで座り、膝の上に肘をついてロトを眺める。
「で、僕はきみたちにF市高校をおすすめしたいんだけど。ロト、きみはどう思うんだい?」
『…………』
ロトは気難しい顔をして、黙って考え込んでいる。色々と思うところはあるのだろう。何せ、蓮に普通の人生を送ってほしいだのとのたまうほどだ。
しかし、冥は思うのだ。じゃあ、普通の人生とは何なのだろうかと。
オーヴァードの人口は増え続ける一方だ。ジャーム化の危険性は今も解決せず、それが原因で若くして命を落とす者も少なくない。しかし、それでも、これからの時代においてオーヴァードと一切関わらずに生きていくことなど不可能だ。
そんな、世の中が「普通」から逸脱し始めている中で、本当に幸せを掴む道があるとするならば、やはり知りませんでしたでは通用しないだろう。
ロトもそれは薄々分かってきているはずだった。自分の存在を生涯明かさずに生きていくなど、不可能だ。どうしても辻褄の合わないことがでてくる。ただ、明かす勇気がないだけなのだろう。
そういった意味でも、冥はこの高校を勧めたかった。蓮のためだけではない、ロトにもオーヴァードの在り方について考えて欲しい。そう、思ったからだ。
長い沈黙を経て、ようやくロトが口を開いた。
『……ま、蓮が行く気になってンだから、オレサマは止めねぇヨ。それに、確かに蓮にはあんたら以外のオーヴァードと出会う機会が必要だ。』
「おや、ロトは行きたくないのかい?」
『本音を言えば、興味はあるゼ。でも、蓮に危険が及ぶンじゃねぇかっつー不安はある。』
「それは大丈夫だろう。ロト、きみがいることだし、他にも頼れる大人がいる。」
『……オレサマは、ここの連中しか信用してねぇ。』
「嬉しいことを言ってくれるね。でもねロト、きみもレネゲイドビーイングとして、世間を知るべきだ。僕たちは人間じゃないからこそ、人間をよく知らなければならない。」
『あんたが言うと、説得力あるな。』
「でしょ?」
冥がおどけて言うと、ようやくロトもプッと吹き出して、ゲラゲラ笑い出した。どうやら、説得成功のようだ。冥もほっとして笑う。
笑いすぎてヒィヒィ言いながら、ロトはどんと胸を叩いてにかっと歯を見せた。
『わかったよ!オレサマの負けだ!なんとか蓮がその高校に入れるように、オレサマもあいつの苦手教科を勉強してやるよ!』
「あっ、それはだめ。それは甘やかしすぎだよロト。」
『なんッでだよ!?会話の空気読めよ旦那ァ!!』
「だめだよ。」
そうして、また爆笑。冥は、この口の悪い息子のこともまた愛しているのだ。だから、蓮だけではなくロトにもまた、己の幸せのために未来を選んでほしいと思っている。
ぜぇぜぇと呼吸を整えて、ようやくロトが真面目な顔に戻る。冥も空気を読めと言われてしまったので、それに合わせて姿勢を正した。
『勉強のことはともかく、蓮のことはオレサマに任せとけって。高校からあんたらに連絡が入らねぇよう、オレサマも何とかすっからよ。』
「でも、本当に困ったときは僕たちを頼るんだよ。きみも蓮も、僕たちの大事な子どもなのだから。」
『ハイハイ。せーぜー頑張りますよっと、【オトーサン】。』
「……!!」
ロトの何気ない言葉に、今度は冥が目を見開いて立ち上がる。今、今ずっと待ち望んでいた言葉が……!!
「も、もういっかい。もういっかい言ってくれないか、ろt」
「……あれ?俺、また寝てた?……ん?どうしたんですか先生、そんな立ち上がって……」
息巻いてロトの肩を掴もうとしたところで、蓮の糸目と目が合う。……ちょうどいいところで、ロトは引っ込んでしまったらしい。何も知らない蓮にこれ以上せがむわけにもいかないので、冥はがくりと肩を落として、寂しそうに笑うことしかできなかった。
「…………なんでもない、よ…………」
「?」
いつか、両方の息子から父と呼ばれたい。そんなことを願いながら、冥は部屋を出ていく蓮を見送った。


これは、次世代の物語が始まる、少し前のお話。
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