世界はいつだってかみ合わない。
綺麗に調和して上手く収まっているように見えて、その実お互い何も分かり合わないまま会話が続いていく。ある意味ふたつの世界を知っている蓮にとっては、それが何よりも気持ちの悪いものに見えて仕方がない。
あなたのことなら私、なんだって知ってるわ。
ぼくも、きみのことを全部理解してあげたいと思う。
……実際、ただの茶番だ。いや、愛の言葉なんてしょせんは上辺だけの茶番でしかないのかもしれない。そのあたりは恋愛に疎い蓮には区別がつかなかったが、それにしてもやはり茶番にしか見えなかった。だって、今その教室のカーテンの陰で愛を囁きあっているふたりだが、女子のほうは言葉通り相手のすべてを見渡す目を持つオーヴァードで、男子のほうはそのことに一切気がついていないただの一般人なのだから。
オーヴァードだと知っているのは、養父から聞かされたからだ。クラスは蓮と違うが、なぜこの教室にいるのだろうか。いっぽうの男子は、顔も名前も知っているクラスメイトだった。一度隣の席になって、やたらと教科書を見せてほしいとせがまれたことしか記憶にない。
男女の影が、カーテン裏でさらに距離を縮めた。おそらく女子のほうは、今教室に忘れ物を取りに入ってきた蓮の存在に気がついているだろう。しかし、男子のほうは目の前の意中の異性に想いを伝えることに必死で、全く蓮のことなど気付いていない。放課後の教室にいるのは自分と相手だけだと信じ込んで、耳をふさぎたくなるようなくすぐったい言葉をひたすら羅列している。一方の女子のほうも性格が悪いのか、蓮の存在に気付いていながらも、男子の睦言を止める気もないらしい。カーテンをしっかりと纏って、二人分のシルエットを見せ付けるようにしてクスクス笑っている。
きっと女子のほうは、自分が何もかも把握できていて、あらゆる人物の心情が自分の手のひらの上で転がっていると思っているのだろう。蓮も特にカップルに声をかけるつもりもなく、淡々と忘れ物を探して鞄に詰め込む。養父である孤児院の園長によれば、オーヴァードはサイコメトリーのようなことまでは難しくとも、ある程度その呼吸や体温、瞬間的な直感から、相手の考えをざっと読むことができるという。きっと、彼女もそんなタイプのシンドロームを持っているのだろう。
だが、と蓮は思う。人の心というものは、そんなに単純なものではない。そりゃあ、美人の女の子を前にすれば鼓動も高鳴り、多少の興奮状態にはなるだろう。でも、蓮は知っていた。男子のほうは以前、他のクラスメイトたちと共に、とある話をしていたことを。
――超能力?とかいうの、まだ信じてんのかよお前ら。あんなの、実際に近くにいたらきもちわりぃに決まってんじゃん。
ゲラゲラと大声で笑いながら、彼はそう話していた。そうして最後に、こう締めくくったのだ。
――やっぱりさぁ。彼女にするなら、変な高望みはしないで普通の子にするのが一番だと思うわけよ、俺は。
その言葉が、やけにはっきりと蓮の耳に残っている。そう、普通の子。ただその一点において、今カーテン裏でほくそ笑んでいる彼女は、一生彼と分かり合うことはないのだ。
(可哀想に。)
蓮は心の中でただ一言そう呟いて、さっさと教室を後にする。彼女はUGNで要観察指定に入っていると、義父から聞いている。きっと直に、己の住む世界がここではないことを知らされて、あの男子からも手を引くことだろう。
(本当に、可哀想に。)
蓮が教室の扉を閉めるその時まで、カーテン裏の睦言は続いていた。
オーヴァードと非オーヴァードがお互いに手を取り合う世界。
それは確かに、美しい理想の世界だと思う。もちろん蓮も、そんな世界を夢見ている。少なくとも自分の暮らしている孤児院内では、小規模ながらその理想世界が実現できていた。園長である家鳴冥と、その連れ添いである空澄明日香は、自身がオーヴァードでありながら非オーヴァードに対しても平等に扱ったし、孤児院の子どもたちもそれが当たり前という世界で育ってきている。自分の普通は、誰かの普通ではない。誰かの普通は、私の普通ではない。それが世界なのだと教えられてきた。そして、それを許容しなさいとも。
しかし、中学校に入り思春期を迎えた蓮は、その理想世界を夢見ながらも、その難しさをだんだんと知るに至っていた。
オーヴァードの普通と、力を持たない非オーヴァードでは、どうしても『普通』の概念に大きな隔たりがある。
それは、強大な力を持つ故の優越感か。あまりにできることが多すぎる故の鈍感さか。
いつでも人類を征服せしめる力は、ただあるだけで脅威だった。
そして、その力を持たざる者たちにとっては、理屈と理性だけではどうにもならない、最も原始的な感情がその隔たりを埋める。
それは、純粋な恐怖。
蓮は一度も、孤児院の仲間たちの力を怖いと思ったことはなかった。だが、自分が意識を失っている間に起きたオーヴァード関係の暴動の話を聞かされるたびに、内心ただただ震え上がっていた。
・・・・・・怖い、恐い、コワイ!!!!
自分にはない力に対する、本能的な恐怖。それに抗えずに震える自分に気付いて、蓮は愕然とした。それは、言い換えればこうして孤児院を全力で守ってくれている、自分たちの親代わりである人たちにも向けられかねない感情だ。
蓮は、その恐怖する自分を恥じ、同時に、世間の非オーヴァードたちの心情を理解したのだ。
どんなに綺麗事を述べたところで、人は本能的な恐怖に抗うことはできない。この恐怖を抱えたままで、オーヴァードと非オーヴァードが手を取り合うことなどできるのだろうか。答えはまだ、蓮の中では見つかっていない。
とぼとぼと階段を下りて、校舎の昇降口で上履きから革靴へと履き替える。
そして、ふと先ほどの男女を思い出すのだ。
――あの二人は、本当に理解し合うことができるのだろうか。もし、彼女のほうから素性を明かして、彼のほうがそれを心から受け入れることができたのなら、未来は明るいのかもしれない。
だが、とかぶりを振る。校舎を出て、校庭を横切りながら校舎の窓を見上げる。先ほど蓮が訪れた教室の窓際に、もう先ほどの男女の姿はなかった。
(……理解し合うことはできなくても、恋愛だけならできるのかな。)
恋愛、というものをしたことがない蓮には、その気持ちは分からない。好きになった人には、やっぱり全部分かってほしいと思ってしまうし、相手のことも分かりたいと思ってしまうだろう。
(私はそのときに、ちゃんと相手のことを受け入れることができるのかなぁ。)
校門をくぐり、夕焼け空の下通学路を歩いていく。きっと今日は、ママ先生が美味しいハンバーグでも作ってくれていることだろう。
ちくり、とこめかみが痛んだ気がする。
まるでこれ以上深く考えるのはやめろと、誰かが警告でもするように。
蓮も難しいことを考えたくなくて、思考を今夜の夕食と、年下の仲間たちへと馳せる。
今はまだ、考えたくない。だって、孤児院では理想の世界が完成しているのだから、何も心配することなんてないのだ。
(そうだ、私たちのことを園長先生もママ先生も守ってくれるんだ。何も怖いことなんてないんだ。そう……)
――コワイものぜーんぶ、オレサマが壊してやるから安心しろよ――
一瞬、暴力的な声が聞こえたような気がして、ぶんぶんと首を横に振る。ああ、慣れない委員会活動ですっかり疲れてしまっているらしい。夕飯前に、少しだけ仮眠を取ろうかな。
そうこうしているうちに蓮の足は、彼女の家である孤児院の前まできちんと歩いていて、痛むこめかみを押さえながら鍵を取り出してドアを開ける。
「ただいま。」
「おかえり!……蓮ちゃん、どしたの?顔が、なんか白いよ?」
ドアを開けるなり、待ち構えていたかのように出迎えてくれた年下の家族が、心配そうに蓮の顔を覗き込んできた。それに苦笑して、「ちょっと疲れちゃっただけだよ。今日は当番じゃないし、ごはんの時間までちょっとだけ寝るね。」と答えて、ちびちゃんの頭を撫でる。
通学カバンを肩から下ろして、重い足取りで階段を登る。後ろから心配そうな声が追いかけてきたが、先に帰っていた悠が、ちびちゃんに声をかけるのが聞こえた。これで安心だろう。
自室に戻ると、カバンは机の横に放り投げて、制服も脱がずに寝台に身を沈めた。
やわらかい布団に埋もれながら、ぼうっとしてくる頭に疑問をひとつ投げかける。
「……どうして、私はオーヴァードじゃないんだろう。」
小さいころからずっと繰り返してきた言葉。
自身もオーヴァードだったら、こんな矮小な人間の感情に怯えずに済んだのだろうか。非オーヴァードの人たちの感情になんて気付くことなく、ばかみたいに理想世界を口にできたのだろうか。
「そんなこと言っても、どうしようもないよね。」
また思考が泥沼に陥る前に、ついに蓮は思考を放棄して目を閉じた。
今はただ、この小さな理想世界で眠ろう。
このどうしようもなく噛み合わない二層構造の世界の中で、ここだけが蓮にとって安心できる場所なのだ。オーヴァードも非オーヴァードもいて、ひとりひとり異なる『普通』が存在する世界。愛おしき極楽浄土。
願わくば、この浄土の華が、いつか世界中にも広がりますように。
おやすみなさい。
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