「ずっと貴方を捜していました。」
ミルクティーのような色の髪がふわりと揺れて、あの人が振り返る。その表情は驚きに満ちていて、普段ならば半分程度しか開かれていない瞼が、今は限界まで見開かれていた。
じくじくと蝉が煩く鳴いている。遠くからは救急車のサイレンが聞こえる。夏の日差しが容赦なくアスファルトを焦がして、狭い路地で出会ってしまった私とあの人を焼き殺そうとする。この夏の暑さの中でもあの人は長袖をきっちりと着ていて、いつかの喫茶店で見かけた細い腕は見えない。それが少しだけ残念だった。
驚いた表情から、徐々に困ったような表情へと変わっていく。当たり前だ、突然知らない男からこんな風に声をかけられたら、誰だってそんな顔になるだろう。私は慌てて、謝罪を述べてからあの人へと一歩近寄る。
「突然お声がけしてしまい、申し訳ありません。昔、貴方を近くの喫茶店で見かけて、それ以来ずっと忘れられなかったのです。まさかこんなところで再会できると思わず、つい浮かれて声をかけてしまいました。」
当然、あの人は私など覚えてもいない様子だった。あの頃、あの人は喫茶店で働いていて、私はその客にしか過ぎなくて。店長の女性目当てに通い始めたはずの喫茶店で、衝撃的な出会いをしてから十年。無表情にたどたどしい言葉遣いで、カフェオレとミルクティーを間違えて運んできたこの店員を、ずっと私は忘れられずにいた。
蝉の声に負けないように声を張って、あの人の返事を待つ。あの人はといえば、もう数年経っているにも関わらず、あのころから何ひとつ変わらない容姿のままで、相変わらず年齢も人種も、性別すらもあやふやだ。その危うさがまた目を惹いて、私の心はすっかり虜になってしまった。
何秒、何分、何時間経ったのかも分からなくなるほど、私はあの人の唇が動くのを待った。やがて、あの人が口を開く。さっきの救急車のサイレンがまだ聞こえるということは、多分そんなに時間は経っていない。だというのに、私にとっては、からからの砂漠に数年ぶりに降る雨のような得難さを感じて、そのもたらされる恵みにただ耳を澄ませた。
「そうですか。」
返された返事は、ただそれだけ。声色には困惑が隠せずに混ざりこみ、こちらが何者かを疑っているように感じ取れた。そのことに、少しだけがっかりする。心のどこかで、ほんの少しだけ、あの人が私のことを覚えていてくれているのでは、という期待があったのだろう。
「はい。よろしければ、少しだけ私と話してくださいませんか。ちょうど、近くに喫茶店もあることですし。」
私は、勤めてこの落胆が混ざらぬように殊更に明るい声で、あの人に微笑みかけた。私の勝手な諦観を、このミルクティーの君に押し付けるのはあまりに人でなしだ。そのくらいの常識は持ち合わせている。そっと、この路地から少し先に見える大通り沿いの、少し古い造りの喫茶店を指差して見せると、あの人もそちらに視線をやって、薄く微笑んだ。
「構いませんよ。僕も人を待っていて、ちょうど暇です。」
「それはよかった。」
やっと、あの人の表情が明るくなったことに舞い上がり、私はあの人の横へと並び立つ。私よりも頭ひとつ小さいあの人は、急に私が距離を詰めてしまったことにも驚かず、私を見上げて笑う。私が日差しを遮るように立ったものだから、ちょうど私自身の影が被さってしまい、あの人の顔を薄暗い影が覆っている。その影の中でも、あの人はあの頃からは想像もできないほど、朗らかに笑っていた。
真夏の日差しに茹った頭で、どうにかこうにかあの人の手を引いて喫茶店の前までやってくる。思ったとおりこの店は、私が最初にあの人と出会った喫茶店と雰囲気がよく似ていて、まるで十年前あの人と初めて出会った日を彷彿とさせた。アンティーク調の扉を押して、二人分の席をと店員に頼むと、窓際のいっとういい席へと案内された。あの人を先に座らせて、私もその向かい側の席へと腰を下ろす。相変らず窓の外は殺人的な日差しが降り注いでいて、大通りを走る車に反射してギラギラと眩しい。私も被っていた帽子を脱いで、左手で自分を扇ぎながら、水の入ったグラスを置きに来た店員を呼び止めた。
「アイスティーを。」
それから、ちらりと目の前に座るあの人を見る。そういえば、この人は何を飲むのだろうか。店員として接する姿しか見たことのない私には、この膝に両手を置いたまま姿勢よく座る人が何かを口にする姿が想像できなかった。
しかし予想に反して、あの人は店員と目が合うととても自然な流れで注文を口にした。
「アイスコーヒーをお願いします。」
かしこまりました、ミルクと砂糖はお付けいたしますか。いいえ、いりません。失礼いたしました。そんな店員とのやり取りを呆然と眺めて、私はついポケットをまさぐる。店員は、私にミルクかレモンかを訊くことも忘れて、そのままカウンターへと去ってしまった。失礼な店員だ、やはりあの人とは違う。
左手でポケットを探り続ける私に気付いたのか、あの人がくすりと笑った。
「ここ、禁煙席ですよ。」
「あ、ああ。失礼。」
言われて、ようやく自分が煙草を探していたことに気付く。いけない、緊張しすぎだ。それにしても、今日のあの人はよく笑う。最初に呼び止めた時には、初めて会ったころと何も変わらないと思ったのに、こうして喫茶店まで連れ込んだ今では全く印象が変わっていた。
私は思い切って、声をかけた。
「あの、よく笑うようになられたのですね。」
「……そう見えますか。」
「ええ、はい。」
「だとしたら、僕は成長できているということになるのでしょうね。」
あの人はそう言うと、少しだけ寂しそうに窓のほうへと視線を移した。何も変わらない車ばかり走る大通りに、何を見ているのだろうか。物憂げに外を見つめるあの人は、やはりあの頃と変わらず儚げで危なっかしい。しかし、その目には確かに、強い芯のようなものが見えた気がした。
私は唐突に好奇心に駆られて、この人の話を聞いてみたいという衝動を抑えられずに身を乗り出す。十年前、この人は突然あの喫茶店に現れ、そして数日後突然辞めてしまった。店長の女性や、時々店員として働いている青年たちに尋ねても、一身上の都合で辞めてしまった、今は自分たちもどこにいるか分からない、と口々に答えるだけ。同じようにこの人目当てに通っていた常連仲間も、次第に足が遠のき店に現れなくなっていったし、私も仕事の都合であの町を離れることになって以来、あの思い出の喫茶店には足を運んでいない。
あの時、この人に何があったのか。あれからずっと何をしていたのか。訊きたいことは洪水のように頭の中で渦巻いているのに、いざ声に出そうとすると喉のあたりがつまったようになる。
そうして苦しみながらも、なんとか声に出せた質問は、実にくだらないことだった。
「貴方はてっきり、アイスミルクティーを注文されるのかと思っていました。」
きょとんとして、あの人が私を見遣る。ちょうどタイミングよく店員が、私の分のアイスティーと、この人の分のアイスコーヒーを運んできて、お互いの前へと置いていった。あの人は、私とアイスコーヒーとを交互に見て、それでも不思議そうに首をかしげた。
「どうしてですか。」
「初めて貴方にお会いしたとき、私はカフェオレを注文したのに、貴方はミルクティーを持ってきたからです。てっきり、ミルクティーが好きなのだと。」
「僕はそんなことを貴方にしたのですか。」
「ええ、はい。もう十年も前のことです。」
そこまで言って、ああ、とあの人が頷いた。ようやく、私との繋がりに思い当たったらしい。
「月兎のお客さんだったのですね。あそこの皆さんは、元気でやっていますか。」
「いえ、私ももうずっと足を運んでいません。」
「そうですか。いい店でしたね、あそこは。一番大変な時期だったけれど、一番楽しかったかもしれない。」
「大変だったのですか。」
「ヒトは誰だって、生きていくのに大変な思いをするでしょう。」
「そんなものですか。」
「そんなものです。」
そう言って、あの人がアイスコーヒーに添えられたストローを取り出して、グラスに挿した。はぐらかされた、そう感じたけれども、そもそも道端で突然声をかけてきた男に対して話すことなんて、そんなものだろうとも思い直す。
「でも、」
あの人がコーヒーを飲みながら、言葉を続けた。
「あの頃があったからこそ、僕は今こうして幸せなのでしょうね。」
そう言って、あの人は再び窓辺に視線を送った。つられて私もそちらを見れば、炎天下の夏空の下を、元気に歩いていく数人の子どもたちが見えた。一緒に連れ添って歩いている女性も、麦藁帽子を被って幸せそうに微笑んでいる。
それを眩しそうに見つめて、あの人は言葉を継ぐ。
「すみません。待っていた人の用事が済んだようなので、これで失礼します。」
呆然としている私には気も止めず、あの人はそそくさとポケットから小銭を数枚出した。ぴったり、アイスコーヒー代だった。
「今日はありがとうございました。」
「い、いえ。それはこちらの台詞です。突然呼び止めてしまい申し訳ありませんでした。」
ふふっ、とあの人が笑う。やはり、この人は苦いアイスコーヒーというよりも、甘ったるいミルクティーのほうが似合うのではないだろうか。ふと、そんなことを思う。
やはり、こうして短い時間でも話すことができてよかった。あの頃の危うさは随分と薄れ、地に足を着けたような安心感と、幸福感を滲み出すあの人の笑みによって、私の中でずっと渦巻いていたものが嘘のように静けさを取り戻していた。
席を立とうとしていたあの人が、私の顔を見てぴたりと止まった。
「……ふふ、ようやく貴方も笑いましたね。」
「えっ。」
言われて、あわてて私も自分の顔を触る。笑っていただろうか、いやむしろ、ここまでの時間憧れのあの人を目の前にして、私は一度たりとも笑っていなかったのだろうか。
「感情を表に出すことは、とてもよいことですよ。」
くすくすと笑うあの人に、私もやっと緊張が解れたらしい。
きっと金輪際もう出会うことはないだろう。終ぞ名前も住まいも訊くことができなかったが、私は妙に満ち足りた気持ちで、このミルクティーの君にと微笑み返した。
「貴方があんまり楽しそうに笑うから、ついつられてしまいました。」
PR